もぬけるから

旧い私の記録

転生届

無事、二十歳になりました。

ちょうど百二十日前のことです。

一年の約三分の一が経ちました。

 

日付が変わった途端に

まるっきり違う私になるつもりでしたが

まるごと新しくなったとは言えないです。

 

不思議なことに、誕生日が近づくたび

「死にたくない」との思いが

高まってゆきました。

年をひとつ重ねるだけで

生きているくせに

まだ生きていたいなんて思うのは

ほんとうにおかしなことでしょうけど。

 

まあほかにも、すべてを変えちゃうのも違うなーと思うところもありまして。

 

それで、旧い私を殺しはせず

一応生かしています。

そんなこんなで生まれ変われた気もあまりしません。

 

まあそれでも

ある部分は死んだし

ある部分は生まれました。

 

たとえば、漢数字を好むようになった

だとか

たとえば、コンタクトを始めた

だとか

そういう小さなことが

変わりました。

 

その一つに

文章を書く場所の変化があります。

 

旧い私と新しい私を

切り離すことも考えたので

ここには記さないでおこうと思っていたけれど

まあ今も十代の私は生きているわけで。

届けておきます。

 

ここと地続きなようで全く違うかもしれないし

他人のようで同一人物だったり大勢だったりが

あり得るかもしれない。

そんなことを二十歳のわたし(たち)はやってゆきたいです。

 

住所はこちら。

https://note.mu/fmk27

 

 

未だ人に成らざる

十九が終わる!

日付が変わったら私は二十歳だ!!

世の中ではラストティーンなんて名前がついて、

ちょっと前に年金の書類なんか届いて、

お酒は二十歳になってから!

煙草も二十歳になってから!

 

二十歳になるということは、

人に成るということなのか?

今の瞬間では未成人である私は未だ人に成っていなかった!!!

 

大人になんかなりたくない!

大人にはやくなりたい!

そんなアンビバレントで中途半端でいれるのもあと少しだけ!!

 

そんなどっちつかずの私のための

パーティであり、祭りであり、葬式であり、通過儀礼

未成人式を十九最後の日にやった!!

最高!!!!!

アルコールなんかなくたって人は酔えるし

ニコチンなんかなくたって人は煙を味わえる!!!

一九の私は、とっても満足して、

きっと安らかに

二十歳になれることでしょう。

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安杏

「安否」の続きです。あまりに長くなりすぎたので、分けることにしました。

 

関係性が確かでなければ、心配な気持ちから行動を起こすことはあまりよろしくないのだろうか……

そう思っていた矢先、去年の早稲田祭どらま館企画「地下街 kunne heper」の脚本(https://drive.google.com/file/d/0BygavSvxuCnrWFFMZGMxZTFFWi1qMGRabnRGU0Q0b3M0R0k4/view?usp=drivesdk にて公開されているもの)を読んだ。

この作品は、前の文章で引用した「dreaming-ホエル-」と同じ人が書いたもので、ここでも人を気遣うシーンがあった。

上演を観ていないので、舞台上でそのシーンがどのように演じられたのかはわからない。だから、読み取れる限りだけど、状況は、登場人物のメノコは雨の中を走り、水たまりで転ぶ。そんなメノコを女は傘で守る。そこでおそらく初対面の二人は、会話をする。

 

女   大丈夫?

メノコ ・・・・・・大丈夫。

女   本当に?本当に、大丈夫?

メノコ そんなに、大丈夫じゃないように見える?

女   あなたは、自分で、どう思う?

メノコ ——————大丈夫じゃない。

女   雨宿りしていく?

メノコ していく

 

かなり、素敵なやりとりではないかな、と思った。

メノコが「そんなに、大丈夫じゃないように見える?」と尋ねたのに対して、女は自分でどう思うかと尋ね返す。その結果、メノコは大丈夫ではないと言い、女は雨宿りの提案をする。

このシーンにはかなり考えることがあった。

 

初対面であり、それまで関係性に名前のなかったメノコに、女は大丈夫?と声をかけている。様々な状況の違いはあるものの、まず私は、心配をする関係性に名前がなくてもいいんだと思い直した。

 

そして、大丈夫じゃないように見えるか訊かれて、あなたはどう思う、と返すの、なんてかっこいいのだろう。多分、私がそう訊かれたらとっさに「そう見えた」とか「そんなことないけど、心配で」などと口走るか、黙ってしまう。女が言うように、大丈夫かどうかは、周りからどう見られるかではなく、その人が感じることなのだ。主語は心配している人ではない。

 

今まで、私は人の辛そうな様子などから勝手に大丈夫ではないのでは、と心配になりがちだった。だけど、実際にその人が大丈夫かどうかは、客観的に全てわかるものではないし、自己申告のほうがいい時もある。思い違いだってありうるのだから。

 

それから、大丈夫じゃないと言われた女は、メノコに雨宿りの提案をした。ここが提案なのが、この会話をさらに素敵にしていると思う。勝手に行動するのではなく、相手の意思を尊重する。助け舟だと思うものに問答無用で相手を乗せるのではない。

 

 

 色々なことを踏まえると、

「相手が大丈夫じゃない、とわかったら、自分ができることを提案すること」

これが今の私の考えの終着点となりそう。もちろん、大丈夫と言われても、大丈夫でないと判断して行動することもあるとは思うけど。

 

 ある人は、気にかかった相手には、自分が、行きたいからご飯に行こうと誘うらしい。自分があなたと話したいから、と言って。あなたのため、などと言って主語を相手にするのではなく。

 

あー、アドラー心理学でも、課題の分離というのはあったなあ。自分の課題か、他者の課題か、ちゃんと見極めること。ここまで考えてきたことはそれに尽きるのかもしれない。一体誰が主語なのか、それを考えるべきなんだろうな。

 

 

私は、人がすごく落ち込んでいるのなら、できる限りの事をしたい。

話の聞き方も、話しかけ方も、話し終わった後も、どうしたらいいのかわからないから、私はとても話をするには心もとない人だと思うけど、できる限り頑張るつもりでいる。もしも、「ただ話を聞いて」「助言あったらほしい」「ご飯食べよう」「電話しよう」って教えてくれたら、きっと空回りしないように努められるはず。

 

直接的であれ、間接的であれ、周りの人たちが幸せに過ごすことに役立てるようになりたい。私は随分とみんなのおかげで幸せに生きてきたし、楽しく過ごせているのだから。

 

だけど、心に余裕のないときは、自分のことでいっぱいいっぱいになってしまう。

なら、まずは心に余裕のある日が一日でも多くできるようにしよーっと。

あわよくば、自分が楽しくいることと、みんなも楽しくいることが両立できたらいいなあ。

 

考えを巡らせても、実際にすることは、自分ができることは、そういうことなんだろう。

楽しく過ごす。心に余裕を持つ。そう生きていこう。

 

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元気館で見かけた、「大大丈夫」。なんて心強い並びだろう。こういう存在?になれたらいいな。

安否

今年の夏の深夜にまとめたものの、やっぱり私が言うことではないんじゃないかと、すぐ削除したつぶやきとその時に書いた文章を書き直そうと思う。

今更ふりかえるのは、関係性の名前について考えているのと、最近素敵な台詞を見つけたから。そして、自分のこれからにきっと関わってくるから。

 

疲れている人のつぶやきを見かけても、私が関わってよいのかわからず、心配するだけ、もしくは匿名でメッセージ送るだけになってしまう

しかし直接話してくれても、相手が望むこと(ただ話したい、助言ほしい、等)を把握できず、もっと疲れさせてないかと不安に思う

 

心配すると『dreaming-ホエル-』での私の台詞、「私はあなたの母親よ。どんなことでも力になるわ。」を思い出す
「大丈夫?」でも「元気になって」でもない。かなり相手にとっては話しやすいのではないかと思う
ただ、これに似た声のかけ方はなかなか難しい

 

「母親だから」ということが話しやすくさせているなら、相手との関係性が大切ということになる
いいへんじ『夏眠』での台詞、『わたしたちは「恋人」だから、いま、連絡しても大丈夫だよね?って、確かめてから、理由をつけてから、連絡をしたい』が心に響く

 

しかし『夏眠』では関係性に「恋人」などの名前がなくても個々人で辛さを共有する約束をすればいいとも書かれる
なので、「友達だから」相手が辛そうな時に話しかけても大丈夫、でもいいはず
けど私のなかでいまいち確信がもてないから踏みとどまってばかりいる

 

以上がつぶやこうとしたもので、ここから先はそんなことを長々と書いています。それでもよろしければ、読んでくださると嬉しいです。

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不明星

演劇サークルの合宿で那須に行った。

体育館にも、牧場にも行ったけど、一番素晴らしかったのは夜空だった。

あの空には雲ひとつなく、無数の星が散らばっていた。

 

いい感じにみんなが酔っている宴会の中盤。

何人かと星を見に外に出たのだけど、急に一人になりたくなった。それで、みんなが宿舎に戻るタイミングで、私はそっと残ることにした。

 

時々、こういう時がある。飲み会の途中に少しの間抜け出して、一人になりたい時が。

いつのときか覚えてないけど、実際一回だけ朝までの打ち上げの中盤にも居酒屋から外に出たことがある。

深夜の路地裏にて、少し泣いた記憶。

悲しかったのかは覚えてないし、おそらく悲しいというわけではなかったはず。ただ、なにか自分の中で一人でないと落ち着けない気持ちが芽生えて、悪いと思いつつも、そっと個室のドアを開け、居酒屋の階段を下っていた。

外で冷たい空気を浴び、駐車場でがやがやしている二階の会場を見つめていた。自分の心をつぶやくことでなだめながら。

かなり長い間出ていたような気がして、中の人たちが心配になった。けれど会場に戻っても、誰も抜け出したことに気づいていなかった。私の心に変化はあったけど、何事もなかったように、スムーズに宴会の時間が進んでいったのだった。

 

今回もきっとそう。きっとどれだけ長く一人になったって、気づかぬ(ふりをした?)まま私を相変わらず受け入れてくれるだろう。そう安心して信じれるほど、私はまわりにいる人たちが好きで、一緒にいればぬくい海に包まれているような気持ちになる。

 

 

星の下の私は、できるだけ人のいるところから離れたかった。宿舎の玄関からまっすぐ進むと、明るく街灯の光る道路と森に出た。このまま走っていって、失踪してもきっと朝になるまで気づかれない。逃げ切れる。そのくらいの人気のなさだった。

明かりがあると、星が霞んでしまうので、宿舎からも、街灯からもちょうどよく距離を取った場所に立つ。

星が、あまりに綺麗だ。一眼レフカメラを構える。だけど、暗すぎて手元もわからないし、正しいボタンを押してもシャッターが切れない。暗さのせいなのか。

まあいい、この星空は、この時間だけのものということだ。しっかり見ておくために、記録できないようになっている。と、納得。

 

その場に寝転がって、満天の星と対面する。借りた浴衣で地面に寝るのはためらわれたけど、見上げるのではなく、空と平行になりたかった。

 

コンクリートから背中に冷たさが直に浸透する。手や顔は深夜の冷気に撫でられて、だんだんと体の端から熱がほどけてゆく。

体温が空気と近くなるにつれて、灰色の地面を超えた、その奥にある地球と一体になっている気がした。地球のかさぶたみたいに乗っかっている肉体。自分の温度がしおれて、生命が閉じていく。老衰で亡くなる時ってこんな感じなのかな。目をつむってしまえば、きっと精神の抜けた物体になってしまう。

 

地球に、星空が、向かい合う。

 視界を埋め尽くす、星、星、星。空の端っこはちょっと曲面で、地球が丸いことを伝えている。

いくつかの星は見覚えのある星座の形に見える。でも一つとして星座の名が出てこない。もやっとする。スマホで目の前の星座を当てるアプリはあるらしいし、検索すればいいのだろう。

諸々の手間を予想したところで、気づいた。星の名前を今調べるのはもったいない。街灯よりスマホは嫌な光だ。スマホのリアルが幻想的な風景に穴を開けてしまう。

だから、名前はどうでもよくなった。星の名前が分かれば、この喜びはもっと増すかな、美しさは変わるかしら。いいや、きっと同じ、むしろ失うものもあるはず。

 

この星の並びは、人間が名付ける前からずっとこの並びで、勝手に区切っているだけ。

今、私に星の名前はいらない。名前を知らぬまま、この美しさを堪能する。名前がわからないことでもやっとした気持ちは散っていった。名前を知らなくても、私はこの星空にただ圧倒されるのだ。

 

星座は星同士をつなぐ関係で、それに名前をつけている。そう思ったら、最近の私のぐるぐるした思考を思い出してしまった。

最近の私は暇さえあれば、人に対する感情に名前をつけようと躍起になっていた。なかなか名前は難しい。名付けてもすぐ名前にふさわしくなくなるような気持ちになる。(感情に名前をつけるなんて中学演劇部で初めてやった「Is〜アイズ〜」というお芝居の場面みたいだ)

 

でも今わかった。きっと名前はいらない。たぶん感情も星のようなものだから。名前がわからなくても、その感情は存在している。感情の言葉から心が生まれることはあるけれど、無理やり当てはめる事もない。うん、名前は必ずいるものではなさそう。

 

名前といえば、ロミオとジュリエットの有名な台詞、

「名前が何だというの?バラとよばれるあの花は、ほかの名前でよぼうとも甘い香りは変わらない」

というのを思い出す。この台詞を初めて知ったのは大学一年の頃だったか。結構驚いたんだよな。ここから名前について少し考えるようになったんだっけ。

 

わからないのなら今はぼんやりとしたままでいるのがいいのだろう。あせって名付けることも、決めかねて悩むことも必要ない。バラに名前をつけなくても、自分の心に存在しているだけなら呼ばないのだし。近ごろ、関係性に名前をつけることが多かったから、名前のわからない感情まで細かく名付けようとしてしまっていたんだ。ふわふわした定まらない気持ちはゆれてゆれて、空中ブランコみたいに私を左右する。ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん。まあでも楽しいし、振り回されてもいいか。

 

近づきたいか、遠のきたいか、このままでいたいか、それだけ。自分は、話したい人さえ、仲良くなりたい人さえ、わかっていればいい。私の気持ちを誰かに伝えたくなる時には、自ずと名前がついているのだろう。

 

 

遠くにある星を眺めながら一番近い自分のことを考えていたら、いよいよ体が固まっていくのを感じた。寒さは芯まで到達したようだ。このままなら心臓も凍ってしまう。

 

暗くて、車がもし来たら、迷わずひき殺されるような場所に寝ている。こんなところにいるとは知られてないだろうな。

遠くに友達の声がする。微かに誰かのスマホから音符がこぼれてくる。

もし気づかれ、誰かに呼ばれてこの時間を止めるのはあまりに惜しい。自分で戻らねば。あー、でももう少しだけ星を見ていたい、寒いけど。凍え死ぬのが先か、満足するのが先か。

逡巡ののち、立ち上がり、自動販売機でほっとレモンを買って会場に戻った。

 

宴会場には仲良くなりたい人、話したい人で溢れている。ああ、本当にこの気持ちさえちゃんと分かっていればいい。

夜空での気づきを好きな人たちに囲まれて話す。自分のことを話すのは、恥ずかしいけれど、受け止めてもらうと、心が満たされていく。

 

 

友達でも、知り合いでも、仲間でも、先輩でも後輩でも同期でも、関係の名前はなんだっていい。名前がなくてもいい。とにかく、手に温度をもたらす缶より温かい、この人たちと一緒にいれるのなら。名付けられぬものはとりあえずそのままで。知りたかったら星の名前を調べたっていいのだ、朝にでもね。

秋眠暁を覚えよ

眠るってなんなんだろう。

今は、よく眠り、よく寝ぼけ、よく遅刻する役をやっているのだけど。当て書きで書かれたこの役、もしかしたら結構当てはまってるのかな、という気づきがあった。残念なことに。

 

みっともない話をする。

朝ちゃんと8時に起きれたら、寮のご飯を食べる。ここまではいい。

そして、ほぼ毎日、部屋に戻ってお布団で二度寝してしまう。スマホをいじりながら。深夜と同じように。

それで大体1時間から3時間くらい寝て、出る時間になるまで、寝る。一度起きても、三度寝したりする。

 

なんて時間の無駄。いや、眠い時はいい。許す。でも、ぱっちり目が覚めて、朝になにかしておこうかななんて思ってる矢先にとりあえず眠っちゃう自分、テメーはダメだ、許さんッ!

 

今までなんだかんだで許していたからなあ。「朝起きただけいいか♪」って。

まあそりゃあ朝ごはんも食べ逃す時間まで寝てないよりかいいけど、その二度寝三度寝が、夜更かしの原因作ってますから!!残念!!!

 

自分を嫌いになったわけじゃなく、別に二度寝三度寝も遅刻さえしなきゃいいんだけど、でもできれば優雅な朝を迎えたいじゃない。駅まで猛ダッシュした挙句目と鼻の先で電車を逃すのはつらいじゃない。

 

自分の粗探しをしたいんじゃなく、積極的に自分を好きになりたい。ありのままも、別に嫌いってわけじゃないけど、なんならもっと好きになりたいな。

 

ということで、恥を晒してみた。自分が変われるなら安いものね。

きり

カマキリをこの前捕まえて、本当に愛おしかった。東京では虫を捕まえることがないから、岐阜で出会える虫が本当に好き。宿舎にいても、虫の声が聞こえてくるから、とっても穏やかな気持ちになる。

 

虫に水を飲んでもらうのが好き。

トンボを飼っていたときに気づいたんだけど、顔に水滴を落とすと、頭をかくように水滴を拭いて、水を足につけて、器用に飲むのだ。めっちゃかわいい。しぐさは猫のようだけど、また違ったかわいらしさがある。

カマキリも水をあげると飲んでくれるし、カマをを器用に使って足をなめるんだ〜、かわいい。

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